シナリオについて(4)ドキュメンタリー的な魅力? 2005/08 [第八章 ロケハン出発篇]
そう考えると気づくのは、ドキュメンタリーが感動的だということ。
闘病のドキュメントやスポーツの記録ものは、胸を打つ。妻を病気でなくした夫のコメントは涙が溢れる。
優勝した選手へのインタビューは、喜びと苦労が伝わり感動する。
でも、彼ら彼女らは俳優ではない。なのに胸を打たれる。なぜか? つまり、人は「本物」に感動するのだ。本物にリアリティを感じ、共感するということ。
ということは、演技で大切なのは「いかに本物に近づくか?」ということ。なら、近づくのではなく、本人が持っているものを出せばより感動的なはず。
それを実践するのが太田式シナリオ。
俳優本人が持つ資質や性格、志向を取り入れて脚本を直すことで、本物にし、リアルで感動的な演技をさせる。
それがドラマを盛り上げることに、繋がるのである。が、それは簡単なことではない・・。
<つづく>
シナリオについて(3)本物の魅力 2005/08 [第八章 ロケハン出発篇]
演出家はよく、こんなことを言う。
「俳優はどんな役でも、演じられるようにしろ!」
「今まで出来なかった役に、チャレンジすることが大切」
「現場で監督に怒鳴られながら、がんばるのが役者だ!」
或る意味、正論なんだけど、僕は違うと思う。 そもそも「うまい芝居」「下手な演技」って何だろう?
一般的に「下手な演技」というのは、会話をしているのに体が直立不動、歩き方が変。
台詞が一本調子、泣いているのに悲しそうに見えない。そんな不自然な状態が「下手!」と言われる。
逆に言うと、自然であることが「うまい!」という訳だ。
自然に話し、歩き、タバコを吸い、本当に悲しみ、怒っているように見えるのが、うまい演技ということ。
そう考えると気付くことがある・・・。
(つづく)
シナリオについて(2)太田式執筆法 2005/8 [第八章 ロケハン出発篇]
太田組式シナリオ執筆法。乱暴にいうと、書かれた役に合わせて俳優を探すのではなく、俳優に合わせて役を書くこと。
厳密に言うと、まず、最初にシナリオを書く。そのときに、あまりガチガチにキャラを作ってしまわない。幅をとっておく。
それを未完成だと批判する人もいるが、その役に限りなく近い俳優を見つけたときに、本人に合わせ、さらに役を掘り下げて書くのである。
色でいうなら、主人公がもともと青だとすると、役者に近づけて水色や紺色にする。台詞や仕草も本人に合わせて直す。
もともと幅を取ってあるので、それが可能。映画を見た人は「あの役者はあの役にピッタリだなあ!」と思え違和感なく物語に入って行ける。
実はコレ。劇団のパターン。台本を書くときに戯曲家が劇団員をイメージして役を書く「当て書き」と同じ。
それにより俳優の魅力を、最大限に生かせるというもの。が、これは映画界の常識に逆らうものである・・。
<つづく>
シナリオについて(1)魅力あるキャラ 2005/8 [第八章 ロケハン出発篇]
午前中に製作会社に行き、スタッフと打ち合わせ。その合間を縫ってキャスティング。夜、自宅へ帰り朝までシナリオ直し。
ここしばらく、そんな生活が続いていてる。
シナリオというのは、ビル建設でいうと設計図。建物には十分な鉄筋を使わないと地震が来たらすぐに崩壊してしまうように、脚本には十分なリアティのある登場人物を描かないと物語も崩れる。
ただ、映画の場合。作られたキャラクターがリアルで魅力的になればなるほど、それを演じる俳優を探すのは大変になる。
イメージは近いけど、演技力がないとか、ルックスはいいが年齢が違うとか、どんぴしゃのキャスティングはなかなかできない。それがうまく行かないと・・。
「何か、違うんだよ。 この子はそんな悲しい過去があるように見えないんだなあ」
観客にそう思われ、共感を得られず物語を真剣に見てもらえなくなる。 魅力的なキャラを書きながら、ピッタリの俳優を探すのは至難の技。それはもう運に頼るか? 奇跡を待つしかない。
それを待っていられないので、役には合わなくても、「人気あるから・・」と有名俳優を選ぶことが多い。 でも、作品としてレベルを下げることになる。なので、太田組ではこんな手を使う。
(つづく)
今後のスケジュール 2005/8 [第八章 ロケハン出発篇]
8月 キャスティング。シナリオ直し。
9月1日 ロケハンで田辺市へ
9月2日 ロケハン2日目
9月3日 ロケハン3日目
9月4日 ロケハン4日目ー>大阪へー>谷村美月と面談ー>東京
9月5日 死神候補オーディション、シナリオ会議、合成打ち合わせ