2003年4月下旬 尾道篇の完結 [第4章 尾道ロケハン篇]
今後の展開を考えた。まず、もう1度、和歌山県田辺市に行ってみるということ。
懐かしく、美しい町であり、映画撮影をするに相応しい町であることは分かっている。でも、そこに大林監督の言われる「思い」があるか? それを確認したい。
大林監督は尾道で生まれ育った。思い出が溢れている。それに対して僕は田辺市生まれだが、4才までしか住んでいない。
ただ、その後も夏休み、冬休みごとに田辺の親戚を訪ね海や山で遊んでいるので、慣れ親しいんだ町であり、子供時代より大好きな町である。
でも、大林監督の思いに比べるとどうか? そして監督のいう「思い」とは何か?それを確かめたい。
それと今回の件で完全にD社はストップ。今年中は何もできないという。が、まだ今年は8か月もある。僕が1人で動き回り、スポンサーを見つけてくれば来年の企画会議に出せるだろう。
ここしばらく、D社のPと共に行動したが、また振り出しに戻り1人になってしまった。でも、諦めない。必ず「ストロベリーフィールズ」を形にする!
(尾道疾風篇 完)
次回からは「再起篇」を連載!
2003年4月23日Ⅱ 手紙 [第4章 尾道ロケハン篇]
今、部屋に帰ってきたとこなんだけど、郵便受けを探ると、一枚のハガキが来ていた。見ると、手書きの文字がハガキいっぱいに書かれている。その字を読む。
「お、お、林・・えーーーーおおばやしーーー」そう書かれていて、仰天! 大林監督からのおハガキだった!
応援しているというお手紙だった。「自分らしい作品を作ってほしい」という激励だった。感動した・・・。泣きそうになった・・。
あのときのことをちゃんと覚えていてくれて、声援を送ってくれたんだ・・・。んーーーーー、がんばらねば・・・。(つづく)
2003年4月23日 相談 [第4章 尾道ロケハン篇]
「ストロベリー」は中断した。
いや、全て白紙でスタートからやり直しといってもいいだろう。先輩の監督に相談した。経緯を聞いた彼にこう言われた。
「そのPの段取りが悪いんじゃないかなあ? 経験もなさそうだし、聞いていると、順番が間違っていることが多い。できるものも出来なくなっているみたい。あまり信頼していると、バカをみるかもな?」
確かにそうかもしれない。が、他の会社では「幽霊の話?ホラーですか?」と言う奴ばかりだったのに、彼は「ストロベリー」の脚本を気に入って映画にしたいといってくれた。非常に感謝している。
それに彼はまだプロデュース作品が2本だけ。僕よりも若く30代。おまけに純粋で、まっすぐ。そうだから「ストロベリー」の脚本を読んで感動してくれたのだと思う。
それにPは「中断して考えましょう」というが、本来ならこんなときはもう面倒になって投げることが多いという。
だが、彼は諦めるとは言わない。先日も大林監督に「かならず完成させます!」と約束した。
不器用だが純粋で、がんばり屋の彼を信じたい。投げることなく、もう一度挑戦すると思いたい・・。来年スタートしやすいように、何か僕ができることはないか?考えてみる・・・(つづく)
2003年3月末日・Ⅱ 心を捨てないこと [第4章 尾道ロケハン篇]
といって、大林監督を恨むのは筋が違う。あのとき、監督は本当に真剣に話してくれた。ほぼ初対面でもある僕に、巨匠が映画作りとは何か?を熱く語ってくれた。
「何でもいいから映画を撮りたい!」という新人監督は多い。「金さえ出れば何でもします」という人もいる。
ロケ地だけではない。物語も、出演者も、キャラクターも、スポンサーが言えばホイホイ変えてしまう監督がいる。でも、そんな人の作品には感動できない。
大林監督が言おうとしているのは、そういうことではないか? 「転校生」のときの大変なお話も聞かせてもらった。
巨匠も戦っている。自分の思いを曲げてはいけないというのは、そういう意味なのだろう。でも、僕はどうすればいいのか・・・。(つづく)
2003年3月末日・Ⅰ 断念 [第4章 尾道ロケハン篇]
結局、大林監督からの承諾をもらえなかったことで、Pは尾道ロケを断念。F社も「監修」と「尾道ロケ」がないなら・・・と撤退した・・。Pはこう言う。
「これではもう企画会議には出せません。次の会議に出せないということは、今年はもう無理です。とにかく、ストロベリーは来年・・また考えましょう・・」
まだ、3月だ。なのに、8ヶ月も先まで何もしないというのか? 考えることさえしないというのか?
これでは国会の先送りと同じではないかと思えた。本当に来年考えるのではなく、事実上の廃案という意味ではないか? そんなふうに感じた・・。(つづく)
2003年3月26日 訪問 [第4章 尾道ロケハン篇]
D社のPと共に、大林宣彦監督をお訪ねした。「初めまして・・」とご挨拶すると監督は「おや、どこかで会ったことないかな?」と言われた。
「実は『あした』と『三毛猫ホームズの黄昏ホテル』で、お世話になっています・・」
そう答えると、「そうだろう? どこかで会ったと思った」と巨匠は微笑む。凄い人だ・・どの作品もスタッフは100人くらいいるし、何本も映画を撮っているので何千人もの関係者がいる。それも『三毛猫』は6年前! 凄い記憶力。
今は監督業をしていることを報告すると、凄く喜んでくれた。新作は応援したいと言ってもらえる。
そこで今回の経緯を説明。「ストロベリーフィールズ」の尾道ロケと監修についてお願いする。と、監督は優しを込めながら、厳しくこう言った。
「太田君。ここぞという映画作りでは妥協してはいけない。製作費が出るからと、心を捨ててはいけません。この作品は尾道ではなく、和歌山で撮るべきです!」
全てお見通しだった。そして時間をかけて映画作りとはいかに「思い」が大切であるか? お金に魂を売って、自分をなくしてはいけないことを話してくれた。(このときの話は「ストロベリー」のパンフレットにも、大林監督が書いてくれています)
自分の思い・・・そうかもしれない。尾道で感じたあの感じ。今も渦巻く、監督の町への思い。それが名作を生んでいたことは感じていた・・。でも、「思い」って何だろう・・。
(つづく)
2003年3月23日 「三毛猫ホームズ」Ⅲ [第4章 尾道ロケハン篇]
というのも、僕も助監督やメイキングの仕事を何本もしているが、監督が末端のスタッフにお礼を言うなんてことは1度もなかったからだ。
職人の世界と同じで、弟子が師匠のことを気遣うのは当たり前であり、「バカヤロー」「気をつけろ!」「邪魔なんだよ!」とは言われても、「ありがとう」と言われたことは皆無であった。
その後も数回、同じことがあり、監督はそのたびに「ありがとう」と微笑みながら言った。僕もいろんな監督とお仕事してきたが、こんなことは初めて。強い印象が残った。
その大林監督と数日後にお会いする。尾道ロケと「ストロベリーフィールズ」の監修をお願いするためである。
D社のPはすでに事務所に電話。アポを取っている。監督がOKをくれれば、D社とF社から製作費が出て、映画は公式にスタートする。
が、断られると、全ては無になり、両社は「ストロベリー」を中止するかもしれない。そんな不安を胸に、深夜バスは東京へ向って走っていた・・・。(つづく)
2003年3月23日 「三毛猫ホームズ」Ⅱ [第4章 尾道ロケハン篇]
それがスタジオで撮影をしたときのこと。監督からの指示はすでに出てスタッフがセットでカメラや照明を準備していた。
大林監督は邪魔にならないように、セットの隅にあるディレクターズ・チェアに座り、シナリオを読んでおられた。
セット内はライトが灯され明るいが、隅の方には灯りがなく薄明かりの中で監督は文字を追っていた。
これでは目が悪くなる!と、メイキング班・七つ道具のひとつ。ペンライトを取り出し、後から大林監督のシナリオを照らした。
監督は振り向くと笑顔で「ありがとう」と言い、シナリオを読み続ける。しばらくして、助監督が準備ができたことを告げに来る。
と、大林監督は立ち上がり、もう一度僕に「ありがとう」と言ってセットに向った・・・。
その「ありがとう」という言葉に、「君は暗闇でシナリオを読んでいる僕に気付き、灯りを持って来てくれたんだね? 気遣ってくれてありがとう・・」というニアンスを感じた・・・。(つづく)
2003年3月23日 「三毛猫ホームズ」 [第4章 尾道ロケハン篇]
「尾道シリーズ」が公開されたのは、僕が20代前半だった頃。全てオンタイムで見ている。「さびしんぼう」は当時、自主映画をやっていた友人3人と横浜の映画館で見た。3人共泣いてしまい、目を合わさずに劇場を出た。
他にも「異人たちの夏」「北京的西瓜」「ねらわれた学園」「はるかノスタルジー」も大好き。それ以前の日本の映画とは全く違う感覚。僕らの世代の気持ちを理解している監督と思え、大いに共感、感動した。
そんな大林監督の現場。「あした」の撮影のときは見学&ボランティアのお手伝いだった。が、「三毛猫ホームズの黄昏ホテル」ではメイキングとはいえ、スタッフとして参加。巨匠・大林宣彦監督の演出を学ぶ貴重な機会だった。
が、撮影現場は戦場。監督は司令官。メイキング班は記録係のようなもの。スタッフの邪魔をせずに、撮影するのが仕事。司令官と話すなんてとんでもない。
それでなくても監督はさまざまな判断と決断をしながら、現場を進めなければならない。例え1分1秒でも無駄にできないのだ・・・。(つづく)
2003年3月23日 東京へ・Ⅰ [第4章 尾道ロケハン篇]
東京行きの深夜バスの中。眠れずに思い出を手繰っていた。
そもそも、大林映画との出会いは、何だったか? そうだ。「ねらわれた学園」。ほとんどの人は「HOUSE/ハウス」なのだが、僕は少し遅い。
そして「転校生」「時をかける少女」「さびしんぼう」と連打されて、もの凄い監督が日本にいたことを知る。
が、実は僕らの世代はCM監督だった頃の大林作品をたくさん見ている。超有名なのはチャールズ・ブロンソンのマンダム。ソフィア・ローレンのラッタタ。カーク・ダグラスのマキシム。
山口百恵、三浦友和のグリコ・セシルチョコレート・シリーズ。と、もの凄い数の作品を見ている。それも印象に残る名作が多かった。
そんな大林監督が撮った映画。撮影所で助監督として修行した人が監督する日本映画とは、全く違う感覚。「アメリカ映画万歳!」だった僕も、大感動した。
そんな大林監督と初めてお会いしたのが、先日のブログで紹介した1995年製作の「あした」の尾道ロケ。握手はして頂いたけど、お話するというところまでは行ってない。
ところが、翌々年1997年。再び大林監督と巡り会う。テレビドラマ「三毛猫ホームズの黄昏ホテル」のメイキング撮影に、1週間だけ参加することになったのだ・・。(つづく)